なまこかべぇ先生の歴史講座

6.日米和親条約と下田開港

アメリカが日本を目指した理由は

18世紀中頃イギリスで興った産業革命は19世紀にはアメリカなどへも広がり、工場の照明や機械の油を得るため捕鯨が盛でした。日本近海でアメリカの捕鯨船が操業していましたが、幕府は鎖国を理由に捕鯨船の遭難の対処や食料の供給等を拒否していました。アメリカは日本にそれを求め、また捕鯨の基地も欲しかったのです。また、当時アメリカは若い国(独立宣言は1776年)で、東南アジア、中国への進出は英・仏など後れをとっていました。アメリカ大陸を東部から西へ西へ開拓し、太平洋側に到達した頃です。太平洋を横断すれば、ハワイ・日本→中国・東南アジアと短時間で行け、英・仏に対抗できる。そのため薪水・食料等の供給地として日本の港への寄港が必要。

ペリーは1852年11月24日ミシシッピー号でアメリカ東海岸のノーホークを出帆し、大西洋を渡り、喜望峰を回りインド洋から中国へ。沖縄・小笠原諸島へ寄り、1853年7月8日(嘉永6年6月3日)江戸湾(浦賀)へ姿を見せました。久里浜で幕府へ大統領の親書を渡し、中国へ戻り、翌1854年2月、軍艦9隻(内蒸気船3隻)で再び来航し、横浜で交渉の末、3月31日(和暦3月3日)日米和親条約を結びました。

ペリーの要求は①日本沿岸で遭難・避難したアメリカ船乗組員の生命・財産の保護。②それらの船への薪水・食料の補給。③日米両国の通商を進める。でしたが③の通商は合意せず①②は妥結しそのために下田と箱館の開港等を決めました。箱館は翌年開港で、下田は即時開港と言うことで、4月18日(和暦3月21日)にはポーハタン号を旗艦として7隻1200名余で下田に入港してきました。

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