5.吉田松陰踏海の企
吉田松陰は世界の大勢を知ろうと、同志の金子重輔と、下田に来航のペリーの黒船で海外渡航を図りました。松陰24才の時です。嘉永7年3月27日(1854.4.24)の夜半、柿崎の弁天島から小舟で黒船に向かい、乗り込むまでは成功しました。しかし、ペリー側は、「下田は開港したが日本はまだ鎖国を止めた訳では無く日本の法を破ることは出来ない」と、ボートで送り返しました。
松陰と重輔は瓜中万二、市木公太と変名を使っていましたが、小舟に置いてあった刀や、師の佐久間象山からの手紙など村人に発見され、役人に届けられており、2人は自首しました。
鎖国の日本では海外渡航は極めて重い罪です。取り調べを受けた後「平滑の獄」に繋がれました。「平滑の獄」は当博物館の向かい側にあったのですが、今は跡もないためここに再現しています。
松陰は10日ほど後「唐丸篭」で天城を越えて江戸に送られ、そして郷里の萩に返されました。
萩に返された松陰は松下村塾で若者達を教育するのですが、かれの門下生達から高杉晋作・木戸孝允・伊藤博文・山県有朋・品川弥次郎など多くの英才が出て、明治維新の原動力になりました。
松陰は後、安政の大獄に連座し、29才で江戸で刑死しました。