なまこかべぇ先生の歴史講座

1.海の関所

400年ほど前、徳川氏が江戸に幕府を開くと、関所を設け、江戸への人や物の出入りを厳しくチェックしました。では船で江戸へ入る場合はどうしたのでしょうか。幕府は下田に船改番所ふねあらためばんしょと言う海の関所を設け、江戸へ入る船は全て下田に寄り、チェックを受けなければ江戸湾に入れない仕組みにしました。

当時の下田はひなびた村でしたが、小田原北条氏の水軍の城があったように、軍事上重要な位置にあり、江戸への航路の重要な港でした。下田には全国から船と人、日本各地の文物が集まり大変な賑いをみせ「出船入り船三千そう」と言われ、人口も約7千人にもなり日本有数の港町になりました。

海の関所であった時の第2代下田奉行今村伝四郎正長まさなが波除なみよけを作るなど下田の街作りにとり組みました。また人心の安らぎを図るため神社や寺をおこしました。ここに展示の祭りは下田八幡はちまん神社の祭りの再現で「太鼓祭り」と呼ばれ、今村奉行がその祭礼の方式を定めたと伝えられており、現在まで400年近く続いています。毎年8月14・15日の2日間行われています。

下田の海の関所の時代は約100年間続き浦賀へ移されましたが、それ以降も下田は風待港かぜまちみなととしても多くの船が出入りし、江戸時代を通じて幕府の直轄地でした。海の関所・風待港という役割が幕末に日本で最初に外国に開港された理由の一つです。

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