18.遣米使節と咸臨丸の太平洋横断
ハリスと結んだ日米修好通商条約の批准書交換の為、幕府は万延元年(1860年)1月遣米使節を送りました。正使は新見豊前守、副使が村垣淡路守で総勢77名の使節団がポーハタン号で横浜を出発しました。その3日前、護衛艦・咸臨丸が浦賀を出港しています。艦長は勝海舟で、途中暴風雨などに逢いますが、37日間で太平洋を日本人の手で横断しサンフランシスコに無事到着しました。
使節団はワシントンで批准交換の大任を果たし、東洋の君主国の賓客として大変な歓迎を受けました。その後さらに米国各地を視察し、見聞を広めて帰国、それからの日本の近代化に大きく貢献しました。(帰国は同年9月27日、咸臨丸の帰国は5月6日)
福沢諭吉もその1人です。大工頭として鈴木長吉が乗り組んでいました。下田の隣町・河津の出身の船大工でロシアの使節プチャーチンの代船ヘダ号の建造で技術を磨き、アメリカの造船所を視察し、帰国後幕府の石川島造船所の造機主任となり、明治政府からも横須賀海軍工廠勤務を命じられ、わが国の造船業発展に大きな貢献をしました。