13.戸田号
船を失ったロシア人帰国用に、伊豆西海岸の戸田で船を造りました。設計はロシア側、造るのは伊豆の船大工でした。ロシア使節プチャーチンは感謝の意を込め「ヘダ号」と命名しました。
この船は24メートル100トンほどの小さな船でしたが、日本最初の本格的・優秀な洋式船でした。幕府はヘダ号に続いて6隻の同型船を造らせています。これらの船は、戸田が伊豆の国君沢郡にあることから「君沢型」と呼ばれました。
ここで洋式造船の技術を覚えた伊豆の船大工達は、のち横須賀の海軍工廠、江戸の石川島造船所など全国に行き、日本の造船界を担うことになりました。大津波の復旧作業の中、下田からも33人の船大工と8名の鍛冶屋が戸田へ行っています。
ヘダ号には約500名のロシア人全員乗れないので他にアメリカ船をチャーターして帰るのですが、帰るまで約7ケ月伊豆で暮らしその間日ロ間で様々な交流がありました。
いまは日本とロシアは遠い感じですが当時はとても密接でした。使節プチャーチンはロシアに帰ると伯爵になり、皇帝から家紋を貰います。家紋はロシアのロマノフ王朝の旗を2人の兵隊が守っていますが、右側は日本の武士の絵です。ロシア皇帝は日本との条約を結んだ事を非常に重視したようです。
※ロシアは当時中国へ進出していたのですが、英・仏等と競合し、北太平洋でも英・仏・米など競合していました。日本と国境をはっきり決めこれらの国に示す事が必要であったようです。また日本と手を組んでこれらの国に対抗する様子もうかがえます。