なまこかべぇ先生の歴史講座

12.ロシアから来た黒船

ペリーが去って6ヶ月後の1854年12月4日、ロシアの使節プチャーチンが下田を訪れました。前年長崎に来航し交渉を始めましたがその続きを下田で行おうというものです。目的はアメリカと同じく日本の港を開くこと、北方の国境を決めると言うことです。

交渉を始めてすぐ大地震と大津波で下田は全滅に近い被害を受け、プチャーチンの乗艦ディアナ号も大破損し、後沈没しました。そのような中で交渉が続けられ、1855年2月7日、下田の長楽寺で日露和親条約の調印が行われました。下田、箱館、長崎の港を開くこと、領土問題は南千島(エトロフ島以南)が日本、北千島(ウルップ島以北)がロシア、樺太は共同で使うという内容です。2月7日が北方領土の日ですが、これはこの条約が結ばれた日を記念して定められたものです。

また、領土問題は明治8年、樺太千島交換条約で千島列島は全部日本、樺太は全部ロシアとなりました。

当時、領土は戦争の結果として決まるのですが、日本とロシアの国境が話し合いで決められたことは、歴史的にも誇れるものです。北方領土は、その後日露戦争、2つの世界大戦を経て今のようになっています。

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